51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/27(金) 23:10:30
織田信長の桶狭間の合戦だな・・・
戦略的には完全に負け戦だったのに
局地戦で偶然完全勝利を達成してしまった
53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/28(土) 01:09:54
桶狭間は戦術で、今川の戦略くずしたかも
大将のクビとったら
情勢が変わったような話はあったような。
38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/22(日) 18:20:56
戦術ねぇ・・・。
局地的に買っても、続かない。
WW2の日本VS中国でいえば、
日本の方が優勢で、重慶まであと一歩だったが、
連合のインド・ビルマからの戦略的な
中国支援と、日本本国の敗戦で終わりになった。
長篠の戦い、
鉄砲数千丁そろえ、
その効果的な利用を考えた信長側の戦略眼の勝利だし。
あえていば、テロかなぁ。
WW1の引き金になった、オーストリアの王族殺害。
火種はあったが、こういう一発は、戦略的?な戦争につながる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/長篠の戦い
長篠の戦い、三河国長篠城をめぐり、
織田信長・徳川家康連合軍3万8000と
武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。
通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、
さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、
当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く
殲滅させられたとされるが、様々な論点に異論が存在する。
42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/24(火) 00:10:02
長篠はそもそも数的優位も戦略的優位も信長にあったと思うが
43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/24(火) 02:00:12
長篠は数と質をそろえた信長の戦略の勝利だね。
80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/19(土) 15:44:24
桶狭間では、義元の首級こそ挙げたものの、
今川軍に巻き返されて信長軍は逃げ帰っている。
信長自身が討ち氏にする怖れも大きかった。
大将首を奪られたくらいでは怯まない、
多弾頭化された今川家と所領に敵を引き込んだ織田家、
両家戦略は引き分け。わずかに信長の果断速攻が勝ち目を分けた。
長篠の合戦、三千丁の鉄砲の半分を武田支城の
攻略に当てたため、馬柵前での武田軍壊滅ではなかった。
閑散とした戦場、当時の屏風画あり。支城陥落での戦意喪失。
上杉武田の諸衝突、戦国最大のヤラセとの説あり。
謙信の一騎駆け、江戸時代に疑問の声上がる。
戦国英雄伝なるもの、後世サムライ政権と
軍国主義の都合で、そーとー脚色されてるから
鵜呑みはキケン。
4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/09(月) 02:29:27
官渡の戦において、
局地戦の勝利を繋いで戦略的敗北を覆した曹操
http://ja.wikipedia.org/wiki/官渡の戦い
官渡の戦いは、中国後漢末期の200年に官渡に於いて
曹操と袁紹との間で行われた戦い。
赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを
決定付ける重要な戦いと見做される。
官渡の戦いの兵力について『三国志』の陳寿が書いた
本文部分には袁紹軍10万(騎兵1万)、曹操軍1万弱と書かれている。
13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/15(日) 15:51:33
楠木正成たん
赤坂城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤坂城の戦い
赤坂城の戦いは、鎌倉時代後期1331年9月11日に起こった河内国の戦い。
河内国・赤坂城に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた
護良親王を擁し、凡そ500の寡兵をもって
約20~30万の幕府軍とわたり合った戦いである。
31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/20(金) 07:55:57
昆陽で勝った光武帝
昆陽の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/昆陽の戦い
23年、中国河南省にあった昆陽城にたてこもった
劉秀が40万の王莽の軍を八千余の兵で破った戦い。
昆陽攻略に梃子摺っている間に、5月末に宛は劉?により陥落し、さらに6月、劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻り、劉秀自ら歩兵・騎兵1千人余りを率いて、新の大軍の陣営から4,5里のところまで進軍してきた。
王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかった。
しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破されてしまう。
43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/24(火) 02:00:12
戦術でいえば、カルタゴのハンニバルの
カンネーの戦いが有名だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カンネーの戦い
カンナエの戦いは、紀元前216年8月2日、
アプリア地方のカンナエで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。
第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル率いる
カルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高い。
2倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利のためカンネー殲滅戦の異名を取る。
あと、日露戦争の奉天会戦
日露戦争自体、日本のネバリ勝ちによるところが大きい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。
日本連合艦隊司令長官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、バルチック艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、連合艦隊の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、ポーツマス講和会議への道を開いた。当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。
49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/26(木) 10:41:51
>>43
それも、戦術的勝利が戦略的勝利に繋がらなかった一例じゃないの。
ローマは一貫してシチリア方面でカルタゴの勢力を遮断し
補給を許さなかった、という戦略を変えなかったわけだし。
50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/26(木) 22:42:53
>>49
「戦略>戦術
だと思うが、逆をやってのけた偉人を晒してくれ。」
という定義だが、一時的にはある。
※カルタゴ
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse052.html
98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/01/08(火) 17:26:18
>>49
いや、スキピオの登場がネックなわけだから、
ハンニバルは大国を戦術で突き崩せなかったと
いうより、戦術的天才に巻き返されたというほうが正しい。
まあ、スキピオはハンニバルが持っていないもの全てを持っていたわけだが。
44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/24(火) 02:34:41
ハンニバルをここのスレで登場させるならば
ティキヌスとトレビアの戦いを
引き合いに出したほうがいいような
135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 02:55:51
ハンニバルは戦略で負けただろ?
ハンニバルは同盟都市の謀反を促し
ローマを弱体化させてから倒す、という持久戦をとる。
対するファビウスは、地中海はローマが支配しており、
ハンニバルには本国からの補給・連絡が
無い点に着眼した戦わずに逃げる持久戦をとった。
快進撃を続けるカルタゴ軍に、逃げてばかりの持久戦に
しびれを切らしたウァロがカンナエで戦いを挑むも
ローマ兵7万を全滅させてしまう。
一方のハンニバルはそのままローマに攻め込まず、
マハルバルに『あなたは勝ち方は知ってるが勝利の活かし方を知らない』
と名言を言わしめる。くらいの戦略性の無さ。
ここでローマに攻め込んでたら・・・
とまぁ、ザマで最終的には負けた訳だが、
ハンニバルの包囲殲滅術に多部族からなる軍隊の統率力は
まさに史上最高の戦術家であると思うが、
戦術が戦略に破れた典型でもあるだろう。
63 名前:由田 ◆MAEDAxMYTY [sage] 投稿日:2007/05/04(金) 00:15:19
関ヶ原の戦いはどうだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日に、
美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦。
関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた。
64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/04(金) 08:52:55
関ヶ原の戦いは
布陣は石田方の勝ち それまでの戦争では石田方が勝っていた。
しかし、内通者つくったり、石田方の兵力を分散させた徳川の戦略勝ち。
45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/24(火) 23:29:27
ドイツ将校ですら関ヶ原の戦いは東軍が西軍に負けると予言してる
しかも ほぼ全ての人間がこの戦は長期間になると思っていた
それがたった1日の勝利がそのまま全体の勝利につながってしまった
47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/24(火) 23:36:59
メッケルは布陣図見ただけで調略の様子とか個々の大名の立場とか
知らなかったんじゃね?
そもそもメッケルが本当にそんなこと言ったのか
120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/02/25(月) 19:54:15
料理の鉄人にとっては、レシピが戦略構想。で実技が戦術。
と仮定して「関ヶ原」を見れば、家康・三成。ともに
レシピである戦略構想は、あった。しかし、いざ実技の
段階になると、はるかに手際よき家康の戦術、料理の腕前が
勝っていた…。三成が手にしたかった食材をいち早く家康が手にして、
見事に調理した。
なんて考えは、いけませんか。
54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/02(水) 02:22:06
大阪冬の陣も
実戦争では豊臣が優勢だったが、
大砲を打ち続けた家康が勝った。
南無阿弥陀仏
戦術よりも戦略だな。やっぱり。
35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/21(土) 19:53:54
圧倒的不利を克服したベトコンが最強。
ヴォー・グエン・ザップ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴォー・グエン・ザップ
ヴォー・グエン・ザップは、ベトナムの軍人、政治家。
優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配からベトナムを解放し、
ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、
ベトナムを再統一する大きな原動力となった。
その名采配から、「赤いナポレオン」と呼ばれた。
141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 18:23:03
ベトナム
50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/26(木) 22:42:53
あと、イクサじゃないが、
フン族の侵攻を思いとどませた
レオ一世の交渉はすごいと思う。
いまとなっては話術なのか?政治力なのかわからないが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/レオ1世
レオ1世は、ローマ教皇(在位:440年-461年)。
この頃のイタリアではフン族の首長・アッティラが侵攻してきていたが、
レオ1世はアッティラと会見して平和的解決を図った。
その結果、452年にアッティラはローマから撤退している。
52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/27(金) 23:12:45
>>50
あれフン族が攻め込める状況じゃなかったからって話もある
それにその前後にはローマ略奪されてるし
65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/04(金) 20:47:18
イラク戦争ではアメリカは戦術では成功したが
戦略は失敗だったな
http://ja.wikipedia.org/wiki/イラク戦争
イラク戦争は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、
イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣した
ポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の
進展義務違反を理由として『イラクの自由作戦』の名の下に
イラクに侵攻したことで始まった戦争である。
66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/05(土) 12:35:06
イラク戦争では
もっとも甘い見通しをした参謀の意見を採用していた。
67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/05(土) 22:30:41
ラムズフェルドは戦う前から相手の事を侮ってたからなぁ。
72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/06(日) 11:05:22
北条氏康の川越夜戦なんかは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/河越城の戦い
天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、
そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。
そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。
子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、上杉連合軍に突入すると、
上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、
山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出したが、
重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。
氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、
戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、
法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。
城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、
足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入し、
既に浮き足立っていた足利軍も散々に破られて敗走したという。
連合軍の死傷者は13,000人から16,000人と伝えられている。
97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/08/07(火) 23:28:02
川越野戦はむしろ戦略的事例だよな
「少数で大兵力を撃破する」という無理な戦術課題を達成しただけで。
基本は篭城の救出戦だもの。
56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/03(木) 00:43:50
この議論は二つの難しさがある
(1)勝利をどの時点で決めるかが難しい。
戦術で一時期勝手も、戦略的に衰退する例が多い。
ハンニバル
(2)戦術と戦略の境目が難しい
単純なのは数
数で負けたが、イクサで買った例は枚挙にいとまがない。
しかし、数が少なくても勝てるような
技を考える戦略を組織的に考えていたら、これは戦略か?
57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/03(木) 01:35:19
国同士が抗争の末参ったって言わせる手段が戦略。
これには政治や外交手段も含まれることが多い。
WWⅡでドイツが編み出したブリッツクリークは戦略手段として考案されました。
実際、ポーランドやフランス戦では成功=戦略的手段として成り立ちましたが、
アフリカ戦や独ソ線では成功=戦略勝利には至っていません。
ブリッツクリークはこの時点で戦術手段に転落してしまうわけですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/電撃戦
電撃戦は少なくとも三つの観点から研究されている。
まず第二次世界大戦初期においてドイツ国防軍がポーランド侵攻、
ナチス・ドイツのフランス侵攻、独ソ戦時のバルバロッサ作戦・ブラウ作戦で、
そしてソ連赤軍がバグラチオン作戦で部分的に実践した歴史的な
戦闘教義としての観点、二つ目は、迅速な攻勢によって勝利する軍事教義として
プロイセンの時代から存在していたという、電撃戦を拡大解釈する観点、
三つ目は、敵の撃破ではなく機動による攪乱に力点を置いた機械化戦闘の
代表的理論としての観点である。
59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/03(木) 13:43:32
「戦術的勝利は戦略的勝利に優先する」
とナポレオンがほざきながら、
命令を無視して撤退を拒否し勝利を続けて
英雄になりましたとさ
55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/02(水) 16:34:44
第二次ポエニ戦争は戦術的にはハンニバルに勝利を得られなかったローマが
戦略で勝利した 戦略>戦術 の好例だと思う。
これに対して1805年のナポレオンは対仏大同盟と言う戦略的不利を、
ウルムとアウステルリッツの二度にわたる戦術的勝利で覆した好例かな。
アウステルリッツの戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/アウステルリッツの戦い
ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方の
プラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。
フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、
後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。
アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地から
フランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの
第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、
さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の
陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。
だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部に
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。
中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、
フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護と
ナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。
中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、
フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。
夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、
散り散りになって敗走した。
60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/05/03(木) 21:04:36
どんな戦争も戦略的要因があるから、
戦術で勝ったように見えても、
実は、こういう戦略があってね。
みたいな展開にならないとも限らない。
ナポレオンのアウステルリッツの戦いも、
オーストリア・ロシア連合軍主力が兵力を
結集しきる前に戦いを挑んだという、基本戦略がある。
大阪冬の陣の
真田幸村VS家康の戦いや、関が原の戦いは、
戦術の勝利よりも戦略の勝利が優先した典型かと思う。
こういうパターンは多い。
桶狭間は奇襲戦術で、今川の大軍をやぶったから、これは
戦略より戦術が優先したといえる。
あとは、日露戦争かなぁ。バルチック艦隊を破った日本海軍。
陸地でのねばり勝ち。
戦略的には日本軍が互角か、やや劣勢だったといえるかどうか。
ロシアに絶対に勝てると思った戦略があったかどうかは判定が難しい。
あと、赤壁の戦いは、どう分析する?
88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/06/12(火) 22:39:37
戦略>>戦術の分かりやすい例として、
川中島合戦第4回な
戦術で勝った謙信が前半押してたが、
結局敗走してしまい北信濃攻略という
信玄の戦略勝ちに終わる。
逆に、戦術>>>戦略の分かりやすい例として、三方ヶ原合戦な
信玄来襲の際、家康と挟み撃ちにしようと考えた信長であったが
結局信玄の巧みな戦術によって家康はコテンパンにされ、信玄戦略
は失敗に終わるww
30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/04/20(金) 00:41:18
斜行戦術のフリードリヒ大王
七年戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/七年戦争
七年戦争は、ヨーロッパにおいては、
イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・
フランス・スウェーデン・スペイン及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。
並行して、イギリスとフランスの間では
北アメリカ、インド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。
オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、
400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など、
当初プロイセンは敗勢を余儀なくされその命運も尽きるかと思われたが、
プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、
エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、
幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。
77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/14(月) 22:56:43
圧倒的に不利な状況を切り抜けたという意味では
七年戦争かな
戦術で突き崩したというか、
時々負けながらも頑張ってたら外交状況が運良く好転した感じだが
78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/14(月) 23:19:42
欧州では英国を味方につけると心強いなあ
182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/01/18(火) 11:20:56
そりゃ君、義経じゃない?
スタンドプレーの神だと思うなあ彼は
一ノ谷の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/一ノ谷の戦い
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は
戦機と見て坂を駆け下る決断をする。
『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、
1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。
義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」
と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。
崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。
予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、
義経はそれに乗じて方々に火をかけた。
平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/01/18(火) 19:20:42
一の谷も壇ノ浦も源氏の方が兵力が多い。
義経が寡兵で戦ったのは屋島だけだが、平氏側の
主力部隊は当時、源氏主力との戦闘に行っていて
留守部隊だけだった。
義経は戦略的に有利な戦いしかしていない。
184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/01/19(水) 02:21:04
>>183
それがもう戦術レベルの話なんじゃない?
一の谷は守備に強いし京の情勢も伺いつつ攻め込める位置にある
その上瀬戸内を地盤に勢力を盛り返していたし、
事実兵力の上回る源氏方の攻撃に互角以上の防戦をした
そのまま長引けば源氏の方が撤退せざるを得なかったと思う
この状況を作り出すまでが平氏の「戦略」
ガラ空きの本陣に後ろからぶっこんだ義経の戦いは「戦術」レベルを出ない
91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/06/21(木) 03:08:05
韓信と義経に一票ずつ。
戦略的不利を完全に覆したといえばこの二人が印象深い。
背水の陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/背水の陣
楚漢戦争時に、漢の劉邦に仕えていた韓信は兵力20万人の趙を
約3万の兵で攻略しなければならないという難局に臨んだ。
韓信は少ない兵力で勝つために、一般的な戦術の定石を敢えて無視し、
軍団を逃げ場の無い川の前に布陣した。兵は逃げ場が無いことで
ここを死地と定め、決死の覚悟で奮戦し勝利を得た。
このことから、あえて自らを窮地に置き、
最大限に力を発揮させる事を背水の陣と言うようになった。
108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/01/27(日) 23:03:10
オスマン帝国の第二次ウィーン包囲を打破った
ロートリンゲンのカルル大公や
ポーランドのヤン・ソビエスキーは名将だけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次ウィーン包囲
第二次ウィーン包囲は、1683年に行われたオスマン帝国による
最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は
オーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城である
ウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、
最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって
包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、
この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、
ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる
長い大トルコ戦争へとつながった。
136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 03:22:20
追加するとチンギス=ハーンを初めとする
モンゴル帝国こそ、戦術で戦略をぶち壊した典型だと思う。
モンゴルの弓騎兵はハンニバルの戦術、まさに包囲殲滅術。
機動力を生かして何倍、何十倍もの数の敵を囲んで
一斉掃射で皆殺しにするという残酷な戦い方だが、
まさに戦術で戦略を破る典型じゃないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していた
モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・
イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、最終的には
当時の世界人口の半数以上を統治するに到る
人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。
死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は
中央ユーラシアにおいて生き続け、
遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。
165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2009/03/27(金) 00:03:08
アレクサンドロスはメムノン生きてたらここで名前すら挙がらなかったろうな
グラニコス川の戦い<
http://ja.wikipedia.org/wiki/グラニコス川の戦い
グラニコス川の戦いは、紀元前334年に現在の小アジア西部を流れる
グラニコス川畔でアレクサンドロス3世が率いるマケドニア王国の遠征軍と
アケメネス朝ペルシアの軍勢との間で行われた会戦である。
開戦前、ペルシア側のギリシア傭兵はマケドニア軍は強力だが
遠征してきているので焦土作戦による敵の弱体化を提案したと言うが、
ヘレスポントス・フリュギア太守アルシテスの
「我が国民の家に火を点けるなどとんでもない」、
「ギリシア傭兵にとっては、戦争が長引くと報酬が多くなるからだろう」
などと批判にさらされた上、後方に配置されたために
効率良く戦闘が出来なかった。
これがペルシアの敗因に繋がったとも言われる。
172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 17:44:48
>>165
メムノンは陸戦だと悉くアレクサンドロスに負けてるから
ギリシャに攻め込んでマケドニア軍を引き戻したとしても
ろくに支援勢力もなく拠点もない状態で
アレクサンドロスに野戦で粉砕されて終わりな気もする
その後アレクサンドロスは東方遠征を再開、と
178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/04/21(水) 04:57:30
数で圧倒する朝廷軍の東北侵攻を
30年以上耐え続けたアテルイ軍
巣伏の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/巣伏の戦い
主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。
初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から
蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、
別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、
裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 19:44:49.95
ベルサリウスは、将軍としては戦略・戦術ともに優秀に思えるなぁ。
ササン朝のホスローとの戦いでは、
相手に弱み(補給とエフタル)を想起させ会戦なしで撤退させる。
ヴァンダルや東ゴートに対しては、
寡兵ながら戦術上の勝利を積み重ねることで相手を凌駕する。
政治能力の不足が足ひっぱって東ゴートを
制圧しきれなかったのは、軍人の限界でもあるが。
195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/09/07(水) 11:00:42.69
黒木為禎帝国陸軍大将。
奇襲とは有り得ない、想定外の絶妙のタイミングで
不意を討つ!これは武士の真骨頂である。
正に夕張巌の夜襲は敵の寝込みを銃剣、
刀を用いたまさかの想定外の奇襲だった。
銃が剣の時代を凌駕したと思い込んだ世間の常識を
あえてそれを用いて敵の意表をついて勝利した、
発想の奇抜さたるや…。
脱帽。
※実際に一時的にではあるが弾が尽きた為に
苦肉の策で敢行されたのが現状の様だ。
204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2013/03/09(土) 12:49:13.10
うむ。幕末の新政府軍の戦いは実に興味深い、
奇想天外な戦いだったのだよ。
大村益次郎の指揮した戦いは正にそれだろう。
分かりやすくいったら、正に初めから敵を喰った戦い方というのはあった。
囮の小隊を使って敵を誘き寄せ、当時最先端だった
精度の高いゲベール銃等を使い、効果的にかつ確実に敵を撃滅していったという。
敵はどの様に反応するかという事を、常に想像力をいかしながら、
的確に動きを読んでいたのは、事前の深い下調べが必ずあったからだ。
それには必ず事前に地形をしっかり読んだ、科学的根拠があり、
全てを把握した上での根拠ありきの作戦なのであった。
大村益次郎はシーボルトの下で学んだ医者である。
奇想天外かもしれないが、科学的根拠として評価されている。
なんせ生粋の学者だったのですから。
103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/01/15(火) 04:43:23
日本じゃ孫子の影響かなんか知らんけど、戦略>戦術という認識が多すぎ。
欧州じゃクラウゼビッツしかりで、戦術>戦略じゃね?
アレキサンダーとかカエサルとかハンニバルとか
ナポレオンとかフリードリヒ大王とか、
全部傑出した戦術家って感じじゃん。
104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/01/15(火) 11:16:38
ナポレオンはしばしば兵站を無視して行軍したし、
ハンニバルのアルプス超えなんて大量脱落者を生み出した無茶苦茶な戦略だし、
フリードリッヒ大王にいたっては、自ら敵だらけの、
戦略的には非常にマズイ状況を生み出してるよな。
本来、役割の違いでどちらが上位概念とかではないのだが、
戦略>戦術っていわれることが多いね。
思うに銀英伝の影響が直接でなくとも間接的に強いと思う。
まあ、銀英伝も孫子の影響を受けているから、
根源をたどればやはり孫子の影響なのかな。
105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/01/18(金) 12:21:49
そこで神風ですよ。
戦略でも戦術でもボロ負け必須だったのに。
全てにおいて負けって状況がひっくり返った激レアケース。
152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 16:46:11
でもどういう風に軍隊をぶつけるかとか、いわゆる戦術の一環な気もするよな。
戦略と戦術って明確に区別すべきものかな?
クラウゼビッツとかは区別してたけど、リデルハート?とかは区別すべきもん
じゃないとか言ってた気が。
結構むつかしい問題だよな。
158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/09/16(火) 21:50:32
それは戦略に優れた国じゃなくて、経済力とか国力に優れた国じゃないのか?
国力の増進は内政でしょ。
まあこれも富国強兵戦略とかなんにでも戦略ってつけられるけど。
孫子は読んだけど、抽象的すぎてどうかと思ったな俺は。
まあ孫子の真髄は戦わず勝てなる戦略なんだろうけど、クラウゼヴィッツとかは
敵野戦軍撃破が第一目標とか言ってるし、なにがなんだかw
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 09:02:34
>>158
孫子も戦うからには野戦が最高と言ってる。
孫子いわく城攻めは時間がかかって不利益が多いので
10倍近い兵力差がないならやらないほうがいいといってる。
(ただし孫子の注釈書を作った曹操は自分が
2倍の兵力で呂布を包囲して捕虜にした例をあげ、
自軍が強くて敵が弱ければその限りではないと説明してる)
92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/07/20(金) 17:27:17
まあどっちもだいじだよな
107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/01/19(土) 14:50:34
ミトコンドリアだな。
原始バクテリアに取り込まれたが、共生関係を持つことにより
地球生命のほとんど全てに子孫を遺し、
宿主にとって必要欠くべからざる存在になった。
大古の戦術的勝利。