8 名前:人間七七四年[!stock] 投稿日:2008/12/02(火) 16:44:16 ID:7AIiJZ9O
本能寺の変後の家康の楽しい旅路
9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 17:45:56 ID:CmD48TzT
桶狭間の戦い
地元が今川だから調べてるけど、本によって説が全然違う
http://ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の戦い
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である
今川氏真・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる
軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。
桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、
合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。
12 名前:641[] 投稿日:2008/12/13(土) 15:11:36 ID:oE18xKpU
埋蔵金が何処にあるのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/山梨県の埋蔵銭貨
甲斐国では戦国期に黒川金山や湯之奥金山などの甲斐金山が稼業し、
武田氏をはじめとする大名権力により掌握されていたと考えられている。
武田領国内には領国通貨として甲州金が流通し、
甲斐本国の勝沼氏館跡などからは金熔融物付着土器も出土しており、
領国内で鋳造された金貨が流通していたと考えられている。
山梨県内では金貨をはじめ土器に納められたさし銭など埋蔵銭貨の出土事例があり、
これらは秘匿のため一時的に埋蔵されたもの、
あるいは地鎮など儀礼的な意味で埋納されたものであると考えられている。
82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/21(木) 19:33:55 ID:wJge+WEe
武田埋蔵金について
15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/13(土) 18:21:32 ID:XExLrGOm
安土城が八角形か四角形か
http://ja.wikipedia.org/wiki/安土城
城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように
天下布武を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、
山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は
山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後
まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、
現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した
宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、
焼失前の様子をうかがい知ることができる。
20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/17(水) 23:12:03 ID:9C89LLoV
秀頼君の(遺伝子上の)父親は誰かな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀頼
誕生した時にはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として
関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。
秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、
秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀頼と秀次の娘を婚約させ、
秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索したが、
秀吉は、文禄4年7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。
96 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/18(水) 00:50:52.64 ID:diKreGF9
うーん 秀吉が抱いた星の数ほどの女の中で、なぜお茶々だけがポンポンと
子供を身ごもったのか・・・・
といっても茶々が他の男の種を仕込んだと言われればそれまでなのだが
98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 06:07:36.86 ID:hfa4Ia+f
すると、秀吉の子はなんで夭折してばかりなのかというのが不思議だよな。
秀吉、秀長、秀次はすくすくと育っているから、
遺伝的に問題があるようには思えないけれど。
43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 10:12:50 ID:Q8In3R1Y
あ!そうだ!
豊臣秀頼の落胤・豊臣秀綱=天草四郎説は外せないだろ!
http://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀頼生存説
平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙では
薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では
「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、
兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあり、当時の京に流行した
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」
という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと
『幸村君伝記』にも記載されるなど生存の噂が流布していた。
23 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/21(日) 22:00:50 ID:KKSnCxOO
ヤスケと明石全党の末路はどうしても知りたい
まあ絶対に新資料は出てこないだろうけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/弥助
弥助は、安土桃山時代の人物。アフリカ出身の織田信長の家臣。
天正9年3月11日付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、
同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、
見物人が殺到して投石が起き、重症者が出るほどで、
初めて黒人を見た信長は肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、
着物を脱がせて洗わせたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/明石全登
慶長19年、大坂の役が起こると豊臣方として参陣する。
翌慶長20年の夏の陣では伊達勢と交戦、同士討ち事件が起きている。
天王寺・岡山の戦いで、天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると、
松平忠直の軍勢に突撃し姿を消す。
その後の消息は不明で、戦死したとも南蛮に逃亡したとも言われており、
死亡時期については諸説ある。
29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 18:45:34 ID:/YX2IZI4
濃姫の末路
http://ja.wikipedia.org/wiki/濃姫
正確には信長の正室濃姫の最期は不明である。
斎藤家の菩提寺・常在寺に父道三の肖像を寄進した後は
歴史から姿を消している。また「濃姫」の墓所、墓石は特定されていない。
そのため歴史家は、道三が存命中で生駒吉乃が嫡男・信忠を生む以前に
1.殺された 2.病気で美濃へ返された 3.病死した
と推察する者もいるが、常在寺に名はなく斎藤家へ帰ったとは考えづらい。
『信長公記』には入輿については記述があるが、その後については記述がない。
また、その他の史書にも記載が見つかっていない。
このため濃姫の最期については様々な推測がなされている。
44 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/22(月) 00:36:33 ID:gV6jinVH
斎藤道三は二人居た説
http://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤道三
北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、
僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。
道三は美濃の戦国領主として天文23年まで君臨した後、
義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、
弘治2年4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。
近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、
美濃の国盗りは道三一代のものではなく、
その父の長井新左衛門尉との父子2代にわたるものではないかという説が
有力となっている。
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 23:49:49 ID:yMgx3uKc
たった2年の工期で完成した名古屋城
http://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋城
51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/02(木) 16:55:55 ID:Dob7vfUe
>>33
mjd?
46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/22(月) 10:29:00 ID:4TU+3jQw
上杉謙信は女なのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信女性説
スペインのゴンザレスという人物が日本についての調査報告書を
国王フェリペ2世宛てに送った。 トレドの僧院にはその報告書が残されており、
その中の「黄金情報」というとじこみに
「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」
(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている。)
とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている。
47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 14:59:20 ID:z9VOiktW
>>46
上杉謙信が女なら、子供の時寺にやられること自体がありえない。
53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 12:26:33 ID:ihd3f2z7
>>47
謙信が幼少期に寺に入れられた確証はない
63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 18:14:33 ID:r+lpSweQ
>>46-47
趣味や服装が女っぽい、しかし紛れもなく男。
つまり謙信はニューハーフだったに違いない。
48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/22(月) 15:47:19 ID:Xxyyl4xy
ここでフタナリ説が登場w
107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 17:03:42.07 ID:4FV/tR3C
女性が好むような服装、趣味
大名、公家よりもその奥方の方と仲が良かった
毘沙門天の生まれ変わりと信じていた
武勇は言わずもがな
どう考えても中二病をこじらせたオカマとしか考えられない。
49 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 22:02:58 ID:jIOLyuNx
武田信玄に影武者が居た
50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 22:11:16 ID:dMcfxStj
影武者のいない武将の方が珍しいだろ。
むしろ山内一豊の、五人の影武者はその後どうなったのかを知りたい。
24 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/13(火) 03:09:25 ID:bxLScVxJ
戦国時代にコンドームが存在していたという説
25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/21(水) 09:26:31 ID:PTSkd7lU
マジで?何製なんだろ。
64 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/04(日) 02:13:36 ID:DvOZv7O9
なぜ石田三成は石高をふやさなかったのか?
65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 02:17:21 ID:EyOoYpMF
豊臣政権の中枢にいる場合、下手に自分の領土を持つより、実入りはいいからな。
だいたい豊臣家蔵入り地220万石を掌握しているのは奉行連中だし。
70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 22:28:37 ID:tcZElVhz
三成の所領と戦国期の浅井家の領域はほぼ一致する。
近江豆知識。
66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 13:23:18 ID:WYnHgvBf
キリシタン大名が火薬の代金に女奴隷を輸出していたのだが
その女たちがその後どうなったのか?
売られて嫁や妾にされたのだとしたら子孫がいてしかるべきだ
83 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/23(土) 22:50:02 ID:klAthhmd
支倉ヨーロッパ使節団の随行員だった人が
先祖だって言う人々が住んでいる村がスペインにはあるらしいな。
美人が多くて有名な村らしい。
そこの娘と悠久の歴史ロマンを感じながらお万粉できたらいいな。
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 13:36:18 ID:kRP+PoOc
>>83
ハポン(にほん)さんね
女子アナになってる人もいるとか
1代限りだから血は薄いだろうけど
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 05:05:31 ID:5ut8Lob3
その村行ってみたい
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 23:10:41 ID:5KEjNhAI
信長の尾張から岐阜への国替え。
あれがあっさり出来るんなら他の大名もやってただろ。
「何故信長ができたのか」「何故他の大名は出来なかったのか」
ちなみに、信長の兵農分離言説はこの岐阜移動が発端になってると思う。
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 23:18:00 ID:d6SnNuIP
家康も浜松に移っている
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 03:33:27 ID:64mCZX0X
北条
伊豆→相模
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 03:39:22 ID:64mCZX0X
あと三好長慶も
阿波→摂津→河内
77 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/13(水) 09:40:01 ID:A96cemWt
けっこうあるじゃんw
78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 11:17:10 ID:z57S1VoH
あっさりって・・・
信長は美濃攻めに10年近くかけてやっと併合してるんだが。
で居城を移した。
だいたい信長は尾張時代にも何回も居城を移してるんだから
おかしくもなんともない。
93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 13:07:23.20 ID:dqcHzz/T
マジレスすると関ヶ原で毛利が西軍として参戦したのは本当に謎。
94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 18:03:52.20 ID:fevrKa5M
>>93
まあ、西の大将になったから
屈辱から倒幕エネが生まれたわけだし
79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/15(金) 23:38:55 ID:C5+pg/Wn
島左近の最後
鬼・悪魔と黒田兵は恐れていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/島左近
島 清興は、安土桃山時代の武将。
通称である島 左近(しま さこん)の名で一般に広く知られる。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
と謳われるほどの人物であった。
関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、
左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが黒田長政の鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷、
一時撤退する(この時、死亡したとも)。
正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなった。
左近は死を覚悟して再び出陣、正面の田中吉政・黒田長政らの軍に突撃し、
奮戦した末に敵の銃撃により討ち死。
最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは
東軍諸将のあいだでも語り草となっている。
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 23:40:16 ID:J9JXBIrV
その割にいつどこでどう死んだか良くわかっていない島左近
109 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/26(金) 22:59:41.24 ID:dA3iqVN4
帰雲城のことはまだ出てないのか?
あれこそ謎だぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/帰雲城
天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。
城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、
この瞬間をもって内ヶ嶋氏は滅亡してしまった。
また、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることで有名。
泉州貝塚にある願泉寺住職道喜(宇野主水)が
安土桃山時代につけていた日記、『貝塚御座所日記』に以下の記述がある。
飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。
地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、内島の在所へ大洪水はせ入って、
内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。
他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。
彼の在所はことごとく渕になりたる也。
111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 01:59:51.94 ID:DFjjWisG
あそこの人たちは今も地下で元気にやってると結論が出ている
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/20(土) 21:21:16 ID:cVurB8Aw
戦国七不思議を作るとしたら
・桶狭間の真実
・安土城の全容
・本能寺の黒幕説
・川中島の真実
・手取り川の真実
・秀吉中国大返し
……あと一個なんかない?
できれば西国で
59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 15:48:45 ID:0SaYP08X
「謎」って明確に否定できない珍説のこと?わからないこと?
川中島は検証すらできないからな
42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 09:18:55 ID:Q8In3R1Y
>>34
> ・本能寺の黒幕説
> ・秀吉中国大返し
これに光秀=天海説を加えて1セットにして空きを二つにすればいい
41 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/21(日) 08:33:29 ID:kkhTGnLC
>>34 厳島の戦いの虚報について。
あ、そうだ、3本の矢の話は、うそっぱちなこと。
兄弟の結束どころか、弟たちは返事の誓紙をすっぽかした(つまり了承しなかった)
という、3本の矢ミステリー展開。